25%のヴィヴァルディ Recomposed By マックス・リヒター
この曲を知ったのは庄司紗矢香が2016年のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの演奏曲目に入れたのがきっかけだった。
小さいこどものいるわたしはコンサートに当分行けない。
仕方なくYoutubeで検索すると、何と、あった。
マックス・リヒター/25%のヴィヴァルディ Recomposed By マックス・リヒター
マックス・リヒターに関して何の知識もない状態で聴いたので、ドイツ人と思った。
オーケストラはポーランド、ソリストは日本、と聞くとある先入観が頭に浮かんでくるのは已むを得ないだろう。
音楽のスタイルは基本的に「四季」からフレーズを切り取りミニマル・ミュージックにしたもの、とすれば少なくとも「春」に関しては当たっていると思う。「夏」、「秋」に関しては正直に言ってわたしにはよく分からない。音楽は全く難解というものではないのだが、どうも私には夏と秋の魅力がよく分からない。「冬」もそれなりに楽しめるが、ふかく感動を覚えたのは「春」だった。春だけでも聴く価値があると思う。
Youtubeでは第一楽章から始まるが、CDではIntroがある。様々な光が屈折して煌めくような短い音楽だ。アタッカで第一楽章に入る。
この楽章では「四季」冒頭のヴァイオリンソロのフレーズ、鳥のさえずりを模したフレーズ(スコアでは14~18小節)を切り取ってミニマル・ミュージック化したもの。鳥は1羽、2羽とどんどん増えて行き、狂おしいほどの数になると共に夜が明けてゆくような、非常に視覚的な音楽。
でも、様子がおかしい。ここには人間の気配がまったくない。
ヴィヴァルディ版は、鳥のさえずりに喜びを投影する人間が感じられるが、この版では鳥は、ただ鳥としてさえずっていて、非人間的なカメラのようなものが視点として前提されており、そのカメラが地上を映し出すと、僕にはおびただしい人間の亡骸が見えるような気がした。生きている人間は一人もいない。あたかも人類が滅んだ日の翌朝のような、虚無的な音楽。
この楽章はいかにも21世紀、或いは第二次世界大戦を経た人間の音楽なんだなあ、と実感させるものになっていると思う。ヴィヴァルディのフレーズを切り取りながら、しかも鳥のさえずりを模したものでありながら、自然との素朴な結びつきが断たれていて、何らかのメカニックなものが間に挟まれている。もしかしたらわたしが初めて聴いた演奏のメンバーから想像してしまった強制収容所、原爆、南京、などというイメージがそうさせるのかも知れないが。
第二楽章は原曲の昼のまどろみのような雰囲気を維持して始まるが、たちまちミニマル・ミュージックにとりこまれた後は陰鬱を極めた転調を重ねて、最後少しだけ甘美な香りをたたえた後、消えてゆくように終わる。
終楽章も第一楽章同様鳥のさえずりを模したフレーズが切り取られているが、今度は人間的な感情をたたえている。
しかし、堰を切ったように溢れる悲しみ、とでも言った印象を受ける。
哀しみを抱えたよだかがどんどん空高く舞い上がり、最後は星になってしまう。
まるで星になる時の様子までこの曲には描かれているように感じるが、流石にそんな筈はない。でも、僕にはそう思えてならない。
世界中から差別がなくならないことの哀しみや、怒りをこのわずか3分間の音楽から聴いてしまうのは想像のしすぎだろうが、この三楽章からなる「春」には戦慄を覚えた。
なぜか「夏」以降はそんな感覚はないのだが。
演奏は、庄司紗矢香のYoutube版の他には、CDでダニエル・ホープのものがある。ドイツ・グラモフォンとは驚いた。
わたしの個人的環境の問題なのだが、Google Play Musicのリンクのみをとりあえず貼っておく(今後どうするのが親切なのか検討します)。
CDは当然ながら人工的な色彩がつよく(シンセサイザーも使われている)、ミニマル・ミュージックとして聴くのならCDの方が好いと思う。しかし庄司紗矢香の演奏は上述した印象に近いイメージ喚起力があり、演奏はとても内容的だ。
ただし、ミニマル・ミュージックとして考えれば、やはりCDの方が内容的でないぶん、却って内容的であるという逆説を立証していると思う。
附録:庄司紗矢香のインタビュー
(2017/7/11)